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2012年12月26日 (水)

ガガーブトリロジーについて考える

久しぶりに書きます。セルセタの樹海については、記事にするタイミングを逸した感があるのでまた別の機会に・・・・
じゃあなんでいまさらガガーブなんだよ、と言いますと、今遊んでいるからです(笑)

まず、僕の好みからくる大前提として・・・・
「英雄伝説IV 朱紅い雫」は、98版(または、その移植であるプレステ版)が「ホンモノ」であり、「ガガーブ三部作の二作目としての朱紅い雫」はこっちです。
Windows版になったときに設定がかなり変更・追加され、一見するとこっちのほうが三部作のひとつとしてふさわしいように見えてしまうのですが、個人的には逆だったりします。

では、なぜ98版のほうが「三部作の二作目」としてふさわしいと感じているのか、そのあたりを書いてみたいと思います。

ただし誤解の無いようにしたいのは、僕はWindows版も大好きだ、ということです。単品どうしで比較して、Windows版が98版よりつまらないと感じる人はいないでしょう!

○ガガーブ三部作という構想
96年に発売された98版朱紅い雫の時点で三部作であることが明らかになっています。ただし、このことを明示的に書いたのは当時PCゲーム専門誌だった「電撃王」だけでした。
朱紅い雫がまだ未発売の「期待の新作」だったころに、初期キャラクターイラストを交えた紹介記事が組まれ、その中にはっきりと「三部作の中核をなすエピソード」である、と書かれていたのです。
確か95年の記事だったと思いますが、現物はもう失くしてしまっているので不明です。ネット上にはたぶん、ソースになるものはありません。
後々触れていきますが、「中核」であるかはともかくとして、98版朱紅い雫は「白き魔女」の続編として、さまざまな点で周到に計算され、見ようによっては、ですがWindows版よりもずっと続編的な作りになっています。

○ガガーブ三部作の作者は誰か
メーカー:日本ファルコムということではなく、ストーリーの作者という意味では98版白き魔女、朱紅い雫における「シナリオ」担当である「早川正」氏であるということが出来るでしょう。
まずは、windows版朱紅い雫はシナリオライターが異なる、ということが単純な事実として挙げられます。
また、海の檻歌に関しても早川氏が参加していますが、脚本は共著の形でクレジットされます。
発売当時の情報によれば、早川氏は海の檻歌の前半のみを手がけて日本ファルコムを退社したとのことです。

ただ、少なくとも早川氏には三部作構想があり、98版の朱紅い雫はその二作目を意図して開発されたということはいえると思います。

○朱紅い雫が白き魔女の続編である理由
最初に結論を言うと、朱紅い雫は「白き魔女の対極の作品」であるということが出来ます。
それはもう、設定、ストーリー、ゲームシステム等が見事なまでに対極的に作られており、そこに何かしらの明確な(あるいは、強力な)意図があると思うのです。
どういった部分が対極的なのかを何回かに渡り、いくつか挙げてみたいと思いますが、今回はそれぞれの主人公について見ていきましょう。

○アヴィンとジュリオ
主人公二人は対照的な造形、設定にになっています。

・両親が健在、暖かな村で幸せいっぱいに育ってきたジュリオ : 邪宗教徒の襲撃で幼くして孤児になり、妹とも離れ離れになって老人ひとりに育てられたアヴィン
※これについてはさらに、ジュリオには故郷がありアヴィンにはそれが無い(エンディングへ向けての布石でもあるが後述)。アヴィンに故郷が無いのは、98版での彼は開拓民の子であるからです。

まずは家庭環境を見てみましょう。
ジュリオは仲睦まじいおしどり夫婦(にしか見えんw)の家庭で育っており、彼のRPG主人公としてはどうかと思うほどのおっとりした性格から見ても、家庭に深刻な問題はなさそうなことが読み取れます。
またラグピック村は大きな集落ではありませんが一種の伝統があり、平和で、ジュリオは村人たちみんなと良好な関係にあります。
一方のアヴィンは、開拓民だった両親を邪宗教徒の襲撃で失いました。この時点で、故郷がなく両親とも死別しています。さらに「まだ赤ん坊だったアイメルを抱いて必死に逃げた」とも語っており、壮絶な少年時代ということが出来るでしょう。
その妹アイメルとも生き別れの状態になっており、かつ、98版でのアヴィンは「猫が逃げた」なんていう外的・偶発的な要因によってではなく、エスペリウスに託された神宝を守るためにあえて散り散りになる、ということを明確に決め、自分から妹と別れています。そうして孤独になったアヴィン少年は、ふもとにウルト村という集落があり、マイルという友人を得ることこそかなうものの、心の中に拭い去れない焦燥感を抱えたまま成長していきます。

ジュリオとアヴィンはその家庭環境、成長過程において、対照的な主人公としてデザインされたことがわかります。


・希望の道を歩んだジュリオ。「希望を感じる」と言われるジュリオ。未来に希望を抱いているジュリオ。 : 絶望しながら旅したアヴィン。ガウェインから「希望を感じさせる子供だった」と評されるアヴィン。最後に希望を取り戻し、後世に託したアヴィン。
※「希望」という言葉は白き魔女、朱紅い雫を通して重要なキーワードになっているようです。
主人公をめぐっての対照性、という観点だけで見ても、ぱっとこれだけの要素が出てきます。

ジュリオ(とクリス)が歩む巡礼の旅。それは、結果的にですが白き魔女の足取りを追う旅でもありました。白き魔女ゲルドの通った道筋は、大神官デンケンらによって「希望の道」と呼ばれました。巡礼の旅は成人の儀式でもあり、未来への希望を強く印象付けられるものでもあります。
その巡礼の目的地であるオルドスにて、ジュリオは「けして特別な力を持っているわけではないが、希望の光を感じる」と言われます。
そしてエンディング。また旅がしてみたい、と願うジュリオの胸中には、未来への希望があふれていたことは容易に想像することが出来るでしょう。

一方、アヴィンを見てみましょう。
少年期のアヴィンの胸中に明るい希望はあったのでしょうか?これはとても想像しづらいですね。
そして劇中で何度かの絶望、挫折が描かれます。親友となったマイルの死、彼を慕うシャノンの失踪、ついに再会した妹アイメルの死。アイメルの死の場面はとりわけ残酷で、アヴィンはアイメルの命が消えていくのを、自分の腕でアイメルを抱きしめながら感じていきます。(当時コンプティークで連載されていたプレイ記事で、アイメルの亡骸を抱き泣き叫ぶアヴィンの挿絵があったのをありありと覚えています。)

抜け殻のようになったアヴィンはルティスを救うため再び行動を開始(このとき、きっかけを与えた人物が後のラップ爺さんであることにも注目)。しかしその心の中には邪宗教徒への憎しみが根付き、育っていきます。
ここまでのアヴィンの旅は絶望に彩られ、挫折に打ちひしがれたところから「憎しみ」「怒り」といったネガティブな動機に支えられる、という、前作の雰囲気からすると冗談のように暗いものでした。

ガウェインは少年時代(カテドラールで暮らしていた頃)のアヴィンのことを「希望を感じさせる子供だった」と語ります。現在形でないこの言い回しには、アヴィンにつらい運命を背負わせてしまったことへの責任と、アヴィンへの申し訳なさ、哀れみ、優しさなどがにじみ出ていました。このときのアヴィンは「希望」とは程遠い存在になってしまっていたのです。

しかし彼は最終的には憎しみを払拭し、希望を取り戻しさらにそれを後世に伝えるまでになります(成長します)。
そのことを描写していたのが、エリュシオンを「エスペランサー」と名づけてミッシェルに託すというエンディングです。

その名前に希望という意味を持つ「エスペランサー」は、ミッシェル(ラップ)からデュルゼルに託され、しかしデュルゼルの絶望に呼応したかのように、20年の時を経て錆びてしまいます。これをジュリオが受け継いだときに(ゲルドの力によって)輝きを取り戻すという展開は、希望が失われてもまた別の希望が生まれる、というエンディングでの言葉へ向けた布石になっています。

Windows版ではミッシェルがこの名前を与えます。彼は三作を通して登場した人物であり、それなりの正当性、役割の妥当性を持ってはいますが、「希望」に着目した場合の98版ほど美しいストーリーには感じられませんでした。

「白き魔女」における明るさ、朗らかさ、ほのぼのとした平和さ。これらと対極的な雰囲気を持った「朱紅い雫」においてアヴィンは、心の奥底に燻る悲しみを抱え、何度も絶望し、恨み憎しみ、そんな暗い感情の底から立ち直って
いきます。そのアヴィンが「希望」という意味の名を後世に託す、というこの構図はたいへん美しく感動的なものだと思うのです。
少し長くなりましたが、「希望」というキーワードで読み解くと、98版の白き魔女~朱紅い雫のストーリーラインにおいては、「エスペランサー」の名付け親は「アヴィンでなくてはいけなかった」ことがわかります。そして98版の「朱紅い雫」が「白き魔女」の続編として明確な意図をもって作られていることを、少しだけお分かりいただけたのではないでしょうか。

次回は、システムや世界観における対照性を考えてみたいと思います。

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コメント

はじめまして。

記事を読ませていただいて漠然と感じていた新版への違和感がとてもしっくりきました!

旧版好きが居てくれるのは嬉しいです(私も新版も嫌いではありませんが

投稿: | 2015年6月 4日 (木) 17時31分

>通りすがりの方
旧の脚本のほうがより優れている、という意見自体は昔からあるのですが、何しろ公式には半ば抹殺された存在ですので・・・あくまでも初期版という名の原案であり、公式なストーリーではないというか。

しかし本来の作家が描いた脚本はこちらのほうなので、そこからいろいろな事を読み取ろうという試み自体は、公式がどうであれ楽しい知的作業だと思います。

これだけ読み応えのあるシナリオをもったゲームは珍しいですからね。

返信が本当に遅くすみません。この返信をいつか読んでいただけたらと思います。

投稿: がっでむ | 2015年10月20日 (火) 20時01分

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